兎が海に溺るるが如く

第2話 諱(いみな)

 

 

「で?楪さん?食事持ってきたんですけど?」

「食べたくありません。」

「毒なんて入ってないよ?」

「お腹減ってないので」

「さっき腹の虫の悲鳴が聞こえたけど?」

「・・・お腹がイッパイなので陽気に歌ってるだけだと思います。」

 朔には、楪が警戒して食事に手をつけないことが分かっていた。それにしても、この子は面白い言い訳をする。

「でも、君さぁ。もう 10 日も何も食べてないでしょ。さすがに俺の手のひら経由にも限界があるよ」

 朔は楪が入院してからずっと、暇を見つけては手を繋ぎ、自分の魔力を『栄養』として、手のひらを介して楪に送っていた。人族の間では出来るものは殆どいないと聞くが。

「そういったことも、していただかなくて結構です。」

 何となく思うのは、きっと過去に辛い思いをしてきたのだろうということ。人を信じることに抵抗があるのは、きっとそのせいなのだろうと。ミスティック、しかも楪のような美貌があれば、利用しよう、手篭めにしようと近づいてくる者も少なくなかっただろう。

 朔は食事をサイドテーブルに置き、丸椅子に腰掛けた。足を組み、溜息を1つ。

「楪さんって、ここ、テラの生まれじゃないよね?俺もそうなんだ。」

 朔は至って冷静だった。

 何を話そうとしているのか、朔には分かっている。止めたほうが良いことも、きちんと分かっている。

「俺の生まれ故郷では、生まれた時に親から付けられる名とは別に、もう1つ名があるんだ。それは『諱(いみな)』と言って、誰にも明かさずに心の中に秘めておくんだ。だって、もし悪意を持って諱を口にされてしまったら、死ぬことだってあるからさ。」

 それでも朔は、何故か急に、試してみたくなったのだ。それがこれまでの人生最大の『賭け』であったとしても、今試さなくてはならないような気がしたからだ。

「俺の諱は、アグリアス。」

 躊躇いがないと言ったら、嘘になる。酷く戸惑った自分を、酷く冷静な自分が傍観しているような心境だった。楪の紫色に揺らぎだした瞳を見つめながら、朔は告げた。

 おそらく、この少女も同じく諱を持っているはずだ。その意味もしっかりと理解しているだろう。そして俺が、彼女に自分の諱を告げたという行為の重大さも。

「あなたは、ばかですか?」

 ほら。と、朔は可笑しくなって、ちょっと笑ってしまった。ほら、やっぱり、とも思った。

「私もガイアの生まれです。諱のことは知っています。でも、どうして私なんかに容易く教えるの?私に殺されてもいいの?!」

 アスタウェルの民の瞳は、気持ちが昂ぶると美しい赤へと変化する。その『赤い色』は世界で最も美しい色だと評されるが、色が移り行く過程もこれほどまでに美しいとは、実際に目の当たりにするまで知らなかった。

「俺のこと、そんなに信用できない?」

 楪の瞳が、真っ赤に揺らいだ。すぐにぱっと反対側を向いてしまったが、一瞬だけ燃え上がる炎のような色が見えた。

 

 長い長い間を置いて、深い青色の目に戻った楪が聞いた。

「・・・ご用意下さった食事、頂いてもいいですか?」

 朔には断る理由などなかった。

 

 

*  * *

 

 

 食事を採るようになってから、楪の身体は回復のスピードを速めていった。青白かった頬には赤みがさし、常に眠そうだった瞳もぱっちりと元気に瞬きをするようになり、そして何より、少しずつ笑うようになった。

「楪さん。昼食持ってきた、よ・・・?」

 今日も今日とて朔は楪の部屋を訪れた。が、いつも彼女がいたはずのベッドが、もぬけの殻。入院から3週間、かなり回復してきたことだし、1人で散歩に出かけているのだろうか。いや、でも。そう思いつつも念のため部屋を見渡すと、意外にも近くに楪はいた。

「ゆ・・・!!!」

 朔からたった、1メートルほどの距離。部屋の隅には全身鏡があったのだが、楪はその前に立っていた。全裸で。ただ突っ立っていただけなら、朔もここまで動揺しなかった。全裸だったのだ。すっぽんぽん。

「ご、ごめん!その、見るつもりはなくって、」

 見るつもりはなかったが、見てしまった。しっかり見てしまった。張りのある豊かな胸と、薄い桃色の。目を瞑っても瞼の裏に焼きついて見えてくるので、反対側を向いた。だめだ、それでも忘れられそうにない。なにあのボリューム、なにあのイイ形。

 ちなみに楪の裸は手術の時にも見ているが、あの時は必死だったから覚えていない。

「ああ、ごめんなさい。今服着ます」

 当の楪は、あまり動じていないようだった。「さっき起きたら視力が戻っていたので。」そう言って、いつもと同じ調子で穏やかに喋った。

「もうこっち見ても大丈夫です。お見苦しいものをご覧に入れてしまって申し訳ありませんでした。」

「・・・いや、見苦しいどころか見物料が必要なくらいなのに・・・本当にごめん」

「気になさらないでください。私のほうこそ・・・

 真っ赤な顔の朔に対し、楪は涼しい顔。だったのだが、朔を見て硬直。のち、視線を逸らす。

「・・・どうしたの?」

 「ええー」と嘆いて頭を抱える楪に声をかけると、しばしの沈黙ののち、意を決したように、楪が口を開いた。

「あの、・・・あなたが、『朔・メルカ』先生です・・・よ、ね?」

 楪は入院当初から視力が落ちていたため、朔の顔を知らないままだったのだ。生まれつき光しか感じられないほどの弱視だったのを、耳の後ろの刺青を介し人間の平均的水準の視力にまで引き上げていたのだが、ゼフォンに魔力を奪われたことにより、本来の視力にまで戻ってしまっていたのだった。

 怪我の回復に伴い魔力も戻り、そして視力が戻ったのだが。

「うん。改めましてこんにちは。君の治療を担当している朔・メルカです。よろしく。」

 楪の濃紺の瞳を見つめると、視線がぶつかった。きちんと見えている証拠なのだろう。初めてのことに、朔は顔がほころんだ。すぐに、楪が視線を逸らした。どうしたのかと見ていたら、彼女の顔が次第に赤くなっていった。

「何か俺、変なこと言った?」

 楪は首を振る。

「申し訳ありません・・・」

「え?何が?」

「私、見ての通り不細工で・・・それなのに先生みたいな人・・・人?の、大切なものまで教えて頂いて・・・」

 大切なものとは、諱を指した。だが朔には、それより引っかかる言葉があった。

「君が不細工?」

 この目の前の少女が?

 緩やかなウェーブがかったふわふわの髪、大きな瞳、赤くぷっくりとした唇、細い首、素晴らしい胸、細い腰、ムッチリとした太もも。どれをとっても、不細工なんて思えない。楪の言葉があまりにも現実とかけ離れすぎていて、思わず朔は笑ってしまった。

「君が不細工なわけがないだろう?すっごく魅力的で、このまま―」

  −思い切り抱きしめて、口付けしたいくらいだ。なんて。

 言いかけたところで、朔は思いとどまった。自分はまだ、この目の前の少女について僅かしか知らない。それなのに、そこまで全力でのめり込んでいってもよいものなのか。と。その一方で、もう諱を教えてしまっている癖に、と意地の悪い自分が理性をチクリと刺激した。

 とにかく。と、朔は続けた。

「君が不細工だったのなら、世間一般の人は一体なんだっていうの?」

「そんなの決まってるじゃないですか、今更。私ほど不細工でバランスの悪い人間はいませんよ。・・・それなのに、先生のようなキラキラな方に治療していただいたなんて、その、もう、申し訳なくて・・・」

「・・・楪さん、それ、本気で言ってる?」

 彼女の言葉は、まるで冗談を言っているような雰囲気ではなかった。再び目が合ったが、すぐに楪の方から逸らされてしまった。ふわふわの髪に遮られ、彼女の表情をこれ以上観察することは叶わない。耳は真っ赤だったけれど。

 

 

「・・・ということで、右から紹介ね。医師のミカ、ルイス。看護師のエーテル、リズ、ギュズ、それと向こうにいるのが薬剤師のトリスタン。まだ他にもいるけど、今ちょっと出払ってて。まぁ、挨拶はそのうち。」

 楪が弱視に戻っていた間、彼女は周囲を非常に強く警戒していたため、朔は出来る限り他の医務職員を会わせようとはしなかった。会わせるとしても、朔も付き添うか、又は楪が眠っている間が多かった。だから、楪にとっては初対面に等しかった。

「楪・シセです。はじめまして。・・・長らくお世話になりました」

 ぺこりと頭を下げた楪は、目が見えるようになった今でも、表情は硬いままだった。警戒が完全に解けないのだろう。

「ユズリハね?ユズって呼んでいい?その代わり、あたしのことミカって呼んでいいから。」

「え?」

「あたし、メルカ君の第1助手として、ユズの手術立ち会ったんだよね。まぁよくも死ななかったものだわ」

「あ、えっと、・・・すみません。」

「ああ、お礼なんていいのよ!あたしワインが好きなんだけどね!」

 ミカ・オーデスト。彼女は思ったことをズケズケと言う、女らしさから対極にある性格の女性だと、朔は認識している。けれど、楪の警戒心を感じ取ったのだろう、自ら進んで話しかけてくれたのはありがたいことだ。・・・しかし、ちょっとずうずうしすぎやしないか?

「楪さん、本当にお礼なんていらないから」

 朔が助け舟を出した。

「でも、私なんかの治療にあたってもらったし・・・」

「だってまだ治療終わってないもん。まだこれから通院してもらわなきゃだし。それなのにいちいちお礼なんて言ってたら、ミカがアル中に

「は?」

 朔の言葉を遮り、楪が低い声を出した。「つ・う・い・ん?」そう言った。

「そうだよ。一応退院ではあるけど、まだ完治してないんだから、経過観察が必要だもの」

「困ります!」

「・・・そんなこと言われてもこっちも困る。ちゃんと完治させてくれないと、医者としては気持ちが悪いよ。」

「だだだ大丈夫、あとは放っておけば治りますから・・・」

「・・・楪さん。意地を張るなら、やっぱり退院は延期にしようか?俺、それでも構わないけど。」

 少し悩んでから、力の抜けた声で、楪は通院すると言った。

 が、きっと楪は来る気などないのだろうと、朔には容易く予想がついた。

 

2013 November 19 芹沢アツキ


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