兎が海に溺るるが如く

第5話 アポイントメント

 

 

  ―泣いているんですか?

「そうよ。」

  ―何が悲しいのです?

「なんでもないわ。ただ、自分の事が嫌いなだけよ。」

  ―自分の事が?どうして?

「誰かが私に何か素晴らしいものをくれたとしても、私には返せるだけのものがない。だって、呪われた私に関わったって、いいことなんて何一つないじゃない。」

  ―あなたはこんなにも生気に満ち溢れていて、光り輝いて見えるのに?

「ハル、私、分かっているのよ。あなたもそろそろ私に愛想が尽きているでしょう?」

  ―そんなこと、とんでもない!私はあなたを愛していますから。

「きっと、その『愛』は『愛』じゃないの。ただの『同情』なのよ。」

 

 

*  * *

 

 

 結局、一泊した翌日には自宅へ帰らせてもらった。個展が迫り、急いで完成させなければならない絵が残っていたからだ。

 帰宅した日はまだ気分が優れず、腹にも痛みがあり、大して作業は進まなかったが、一晩ぐっすり寝たら、驚くほど回復していた。濃いめに淹れた紅茶を片手に、朝から夜まで黙々と制作。更に翌日も、黙々と制作。作品の発送期限であった 2 週間はあっと言う間に過ぎたものの、なんとか間に合わせることが出来た。

 その間、 2 度ほど朔が診療に訪れた。家に来られるなんて逃げ場のないことは嫌だと思っていたが、締切りがすぐそこまでやってきている中では、時間効率が非常に良かった。その代わり朔が大変な思いをしていたのだろうが、それでももっと早くにこうしていれば、と思いもした。

 

 ろくに食事もしないままだったので、締切りから解放された瞬間に思いついたのは、「しっかりご飯を食べること」だった。ちょっと手の込んだご飯が食べたい。でも食材がない。ということで、シャワーを浴びて食材の買出しに出かけた。

 楪の家から歩いて 30 分ほどの距離に、市場があった。色とりどりの野菜や果物と、その日の朝に水揚げされたばかりの新鮮な魚介類が並んでいた。

 パスタは何のソースにしようかな、と悩みながら野菜を眺めていたとき、後ろから見知った声がした。

「あら、ユズちゃんじゃない!」

 楪には嫌な予感しかしない。

「ど、どうも、シモーヌさん。こんにちは。ご無沙汰してます・・・」

 彼女はシモーヌと言って、わりと楪の家の近所に住む、所謂世話焼きおばさんだった。楪が引っ越してきた当初もまず始めに彼女が話しかけてきた・・・と言うより、根掘り葉掘り聞いてきた。職業、年齢、家族構成、出身地、など。果ては、収入や人脈についての質問に及んだりもした(もちろん曖昧にぼかしてある)。楪も確信に近いレベルで勘付いてはいたが、やはり彼女は所謂『スピーカー』と呼ばれる種類の人間だったようで、彼女の問いに答えた数日後には、のちに楪行き着けとなる画材屋の主人のところにまで噂話がやってきていた。

「最近どうしたの?どこかへ旅行でもしていたの?」

「いえ、ちょっと制作に追われていて、ずっと引きこもっていたので。今度個展を開くんです。」

「まぁ!それはそれは!沢山人が集まるんでしょうねぇ、この前雑誌の表紙にも載っていたくらいだし!」

「その件は忘れていただけると非常に助かるんですが・・・」

 楪の中では既に黒歴史として脅威の安定力を誇っていた。

「忘れるなんて!あのねぇ、あの雑誌を見て、私の甥があなたのこと気に入っちゃって。・・・ユズちゃん、もし彼氏いないなら、どう?会ってみない?」

「・・・その『甥』って、『ディラン』さんですか?」

「あら、ユズちゃんディランのこと知ってたの?」

「シモーヌさんとお会いするたびに聞くお名前ですから、嫌でも覚えますよ・・・。」

「それなら話が早いわ!あのね、あの子見かけもなかなか良いし、これから出世もするだろうし、あと母親想いでとっても優しい子だし!きっとユズちゃんも気に入るから!」

 彼女は甥と楪を見合わせたいらしく、これまでも幾度となく話をされてきていた。そのたびに断るのだが、彼女の頭の中では「諦める」という言葉が削除されているらしい。

 それにしても、どうして私にそんな話を持ってくるのだろうか。見た目も良くなく、いつも引きこもっていて、いかにも不健康そうな自分に。

「・・・ 1 回だけ、お会いしてお話するだけなら。」

「本当?!」

「ただし、条件があります。私と彼のその後について、決してあれこれ口を出さないで下さいますか?それと、もう二度と縁談の話は持ってこないで下さい。この 2 つをお守りいただけるのでしたら、お受けしましょう。」

 自分に執着するのは、きっと金目当てなのだろう。確かに、オークションでは過去の作品がかなりの高額で取引されている。それでも、 1 回だけでも実際に会えば、きっともう二度と、関わろうとは思わなくなるだろう。

 楪は、小さく嘲笑した。こんな見た目で性格も暗い女を、本気で欲しがる男はいないだろう、と。

「わかったわ!いくら私でも若い 2 人に口出しなんて野暮な真似しないわよぅ!縁談の話も任せておいて!あなたが浮気する道なんて作らないから!」

 多分、シモーヌは勘違いをしている。けれど、約束を守ると宣言した手前、楪はこれ以上追及することはなかった。

 その男と会うのは、 3 日後、ということになった。

 1 週間後には、個展の開催が迫っていた。

 

2013 November 22 芹沢アツキ


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