兎が海に溺るるが如く

第17話 いろは

 

 

 楪はひとり、自分が許せないでいた。

 仕事に支障が出ているわけではない。画家の方の仕事に関しては、悩みも「糧」として考えれば、マイナス要素にはならないと思っている。けれど、このままで良いわけがないと、そう強く感じていた。

 

 何のことかというと、朔のことと、ハルのこと。

 朔に告白されてからというもの、寝ても覚めても彼のことばかり考えてしまう自分がいた。

 夏に初対面の相手と見合わされたとき、楪は彼に「自分は誰とも恋愛も結婚もしない」と言い切った。その気持ちは今もある。だって、どう考えたって自分のような殺人鬼が、一般の女性と同じように幸せな結婚生活を送れるとは思えないからだ。しかも、まだ自分が美人だったなら救いようがあったかもしれないが、よりにもよって今まで出会ったどの女性よりも、大幅に劣った容姿(と、楪は評価している)。自分以前に、相手を幸せに出来る条件すら何一つ持ち合わせていなかった。

 朔にも、本来ならばあの場で、すぐに断るべきだったのかもしれない。しかし、あまりにも唐突過ぎて言葉を失くし、気付いた時にはすべてが遅かった。家に帰り着いてもまだ現実のことと信じられず、でも夢だとも思えず、夢と現実の間を幾度となくウロウロ彷徨って、朝日が昇る頃ようやく現実だと飲み込めたくらいだったのだ。

 あの日貰ったペンダント。今でも美しい輝きを放っている。断れなくとも、これは返せた。何度だって、チャンスはあった。でも、楪には出来なかった。返せなかったのだ。

 キラキラ七色に光る宝石を見ていると、何故か心が落ち着いた。身に着けていると、何故か自信が湧いてくる気がした。

 

 朔は龍族。龍族は、長い一生涯で、1人きりしか伴侶に選ばない。伴侶として選んだなら、病める時も健やかなときも共にあり、喜びも悲しみも全てを共に味わい、そして最期も共に消えていく。どれだけ生涯のパートナーを大切に慈しむのか、楪はエムという名の龍族を間近に見て知っていたし、事実激しく憧れていた。

 朔は龍族。彼は、一生を過ごす相手として、自分を選んだのだろうか。それともただ単に、今この瞬間を遊ぶ相手として、自分を選んだのだろうか。

 自らの履歴を考慮に入れると、おそらく後者。しかし、朔の態度からは、前者としか思えない。

 自分は朔の伴侶として、伴侶足りうる履歴を持っているのだろうか。・・・否。

 そもそも、自分は朔のことをどう思っているのだろうか。「好き」ではあるけれど、エムと同じ単なる信頼なのか、自分に封じた恋なのか。信頼と恋はどこがどう違うのか。

 

 そして、ハル。

 ハル、という男の顔は知らない。声は 20 代から 30 代、落ち着いた男性の声。あまり感情の起伏を表には出さず、淡々と喋るのが彼の特徴。

 気付いた時には既に夢に彼が現れるようになっており、いろいろな話、時には相談をしたことすらあった。楪は、ずっとハルは自分が作り出した人格だと思っていた。心の安らぎを求め、『ハル』という人格と夢で対話することで、現実では満たされない何かを補充しようとしたのかと思っていた。

 しかし、ここのところ、ハルはまるで自分の意思を持っているかのように、楪に「愛している」「自分を選べ」と主張してくる事が増えた。楪は自分の頭がおかしくなったのかと思ったが、そうと言い切れない、というよりも、『ハル』は本当に実在しているのではないか、という思いが次第に大きくなっていった。

 もしも本当に『ハル』が実在していて、やっぱり現実でも自分のことを「愛している」と言ってきたなら、どうしたらよいのだろうか。・・・分からなかった。

 

* * *

 

 魔物の騒動が傍目にはひと段落した頃、宗世から食事のお誘いがあった。面倒なので断ろうとしたが、先日自分に借りを作ったからだの何だの言われ、それを論破する方がよっぽど面倒だと思ったので、そのまま受けることにした。

 10 月に入り、太陽も落ち着いて涼しくなってきた頃だった。

 インターホンを鳴らす音が聞こえたので扉を開けると、なじみの顔があった。

「楪様、お迎えにあがりました」

「お久しぶりです、ローゼスさん」

彼は宗世の家お抱えの運転手で、名をローゼスと言った。非常に人当たりの良い男性で、手持ち無沙汰な時は気軽に話題を振ってくれるが、込み入った話があるときや静かにしておいて欲しいときは決して話しかけてこない、空気を読むのがとても上手な人だった。

「急なお誘いで申し訳ありませんでした」

 馬車が出発してほどなく、彼は言った。

「気にしてないですよ。宗世が忙しいのはいつものことだと分かってますから。それよりローゼスさんも彼に振り回されて大変でしょう」

「いえいえ、私は仕事ですから。不満に思ったことはありません」

「宗世も早く女性を 1 人に絞ればいいのに。そしたらローゼスさんも今より楽になるでしょう?」

ローゼスは楪の方をちらりと見た。

「確かにそれはそうでしょうが、宗世様も美姫揃いで決めかねていらっしゃるのですよ。ましてや大本命が手を出しにくいお方ですからね」

「本命がちゃんと決まってるんですか?だったら狙いを絞ればいいのに」

 言葉の真意に気付いていない楪を、ローゼスはニコニコと見ていた。

 

 蘭国焔州第 3 地区、某所。とある名高いホテルの最上階。

 案内された場所では、既に宗世が待っていた。

「やあ、ユズ。思ったより早かったね。今日もまた美しいね。よく似合ってるよ、そのドレス」

「ありがとう、これ今日初めて着るドレスなの」

「ドレスを贈ってあげられたらそれが一番良かったんだけど、生憎今回は時間がなくてね。次誘うときは必ず用意しておくよ。」

「いいよ、そんなに気にしなくて。誕生日にプレゼントしてくれるドレスも、別に次からはなくてもいいんだけど」

「そんなこと言わないでくれ。ただでさえあまり君のこと気にかけてあげられてないから、誕生日くらいは好きなもの贈らせて欲しいよ」

「だから気にかけなくていいってば。他にも気にかけるべき人がいるでしょ?」

 宗世は笑って誤魔化した。

 しかし、宗世は自分が楪と付き合うことになるなどあり得ないと、きちんと理解しているはずだ。少なくとも楪はそう認識している。出自の怪しい単なるミスティックでは、超大国の皇太子の結婚相手としては相応しくない。次期国王と有望視され、国民からの信頼も厚く実力も兼ね備えた彼にとって、そんなこと考えなくとも分かることだ。

 ウエイターがワインを持ってきた。宗世のグラスに次いだあと、楪のグラスにはぶどうジュースを注いでもらった。 

「‥焔に現れた魔物の話、結局どうなったの?」

「僕も報告書を読んだだけだけど。簡単に言うと、儡国は読みどおり、生物兵器を量産していた。後の処理はベルが上手い事してくれるだろうが、それでも儡国とその周辺国の関係悪化は避けられないだろうね」

「…戦争になるかしら」

 宗世はワインを口にした。

「どうかな。儡国はもともと小さな国だから、国際的な圧力がかかればすぐに動けなくなる。でも、だからって下手に出るということにはつながらない。むしろ強気でくるだろう」

 顎に手をあてて、楪を見つめた。

「…怖いの?」

 目を細めて楪の様子を観察している宗世に対し、フン、と一瞥する。

「怖いわけじゃない。・・・ただ、なんか、最近ちょっと考えることが多くて、有事の時に正確な判断が下せるか不安、というか」

 「ふ〜ん」と、宗世は納得していないような、モヤモヤとした返事をした。

「考える事って、あの男のこと?」

 宗世がこんなにも早く突き止めるとは思ってもみなかった楪は、前菜の飲み込み方を間違って、ゴホゴホと咽た。かえってそれが動揺しているようで(実際そうなのだけれど)、恥ずかしさが余計に増す。

「どうして。恋人ではないんだろう?だったら何を考えることがあるっていうのさ?」

「恋人ではないけど、・・・好きだと言われた」

「そうだよ!君の最初で最後の恋人になるのも僕だと・・・え?今なんて?」

 小さな呟きを流しかけたが、宗世にとって大きすぎて、結局引っかかって止まった。

「私を好きだって・・・。その、・・・キスしたい、抱きしめたいって・・・」

 楪の頬に赤みが走った。

「そ!それで・・・何て返したの?ていうか、それいつの話?」

 宗世の顔は青くなった。

「ちょっと前の話。魔物が襲ってくるよりも前の話。私は、そんな風に考えたことはなかったと言ったのよ。そしたら、そんな風に考えるようになって、って・・・」

 楪は自分に対する好意に、非常に鈍感だ。そして何故か、自分の外見に激しいコンプレックスを抱いている。この2つのコンボで楪本人は無自覚のまま、大抵の男を玉砕させていたのに。

 耳まで真っ赤にする楪に、宗世は返す言葉が見つからなかった。

 死体と業火の中で楪を最初に見つけたのは、自分だった。最初に好きになったのも、最初に告白したのも自分。最後に楪が落ち着くところも、自分の隣であるはずだった。

 しかし、楪は一旦はアスタウェルを追い出された身。自分の願いどおり楪を手に入れるには、彼女が再びアスタウェルに戻り、皇女として認められる必要がある。今のように出自を隠した状態ではもちろんのこと、出自を明らかにしたとしても、幼い頃に皇族不適格として追い出された楪が皇女として復権する可能性は極めて低かったため、フェリンズ皇太子である自分の伴侶に楪を選ぶことは、宗世にとって雲を掴むような話だった。

 自分が楪ひとりに愛情を注げないでいる間に、変な虫に付け入られてしまったというのか。

 楪は、椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。口から零れるのは、大きなため息。

「大体さあ、もう。面倒なんだっつーの。」

 その言葉で我に返る宗世。

「面倒?何が?」

「どいつもこいつも好きだ好きだ、愛してるって。考えるのが面倒くさい」

 自分の事も言われている気がして、ちょっと背中に汗をかく。

「私は宗世が好き。先生のことも好き。ハルのことも好き。・・・それじゃ駄目なの?私はみんな好き。それでいいじゃない」

 「ハル」とは宗世には聞いたことのない名前だった。あの医者の他にも言い寄ってきた虫がいたのだろうか。

 楪はぶどうジュースに口をつけた。

「この前、先生に告白されてから、丸 1 日かけて考えたのよ。でも、全然答えは見えなかった。そうこうしてたらハルにも変なこと言われるし、魔物は出てくるしで・・・。私これでも忙しいのに、どれだけ時間かけたら答えって出てくるのかしら?」

 顎に手をあて、目の前の皿を凝視する姿が、宗世にはなんだか滑稽に思えてしまった。

 そんな事に時間を費やしているなんて。

「君は真面目だねえ」

 宗世があまりにも笑うので、「君はばかだねえ」と変換されて楪の頭に入る。

 この様子なら、まだ虫が付くことはないだろう。ちょっと安心。

「何がおかしいの」

「君は深く考えすぎなんじゃないのかな。好きなら、好きでいいと思う。たくさん時間を使って考えたからと言って、単なる『好き』だったのが 1 人だけに向けるほどの特別な意味を持った『好き』に変わることはない。」

 ぼんやりとした抽象的な話にいらっとしつつも、楪は興味を持つ。

「・・・つまり?」

「きっかけは人それぞれだけど、例えば、こう・・・」

 テーブルの上に身を乗り出すように置いていた手に、宗世の手が重なった。大きくて、獅子のレリーフが施された指輪がはめられた手。

 楪は手を引っ込めようとしたが、宗世がそのままで、と制し、言葉を続けた。

「触れたときのぬくもりが心地よかったからとか、言葉が胸に響いたからとか、優しくしてもらったからとか。そういう他愛もないことをきっかけに、急に『好き』っていう気持ちが溢れ出して来て、自分の意思では止められなくなる。それが特別な『好き』なんだと思うけどな」

 今度こそ手を引っ込めて言った。

「・・・よく分からない」

 宗世が口を開いて笑った。

「ユズはまだそういう感覚になったことがないから分からないだけだよ。いつかきっと、分かるときが来るよ」

 硝子玉のように透き通った瞳には、何故か説得力があった。

「さすが宗世、『恋多き男』やってるだけはあるわ」

 

 結局、楪の悩みは宗世をもってしても解決しなかったが、深く考える必要はない、ということは楪の心に残った。

 少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。

 

20134 February 10 芹沢アツキ


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